De Legibus et consuetudinibus Interreticuli

権威と典礼

白田 秀彰とロージナ茶会

もう〆切りか... 一ヶ月って早いなあ。予告どおり「ネットワーカーたちが服している権威」について。今回のテーマに関しては、いつもよりたくさんのメールをいただきました。全部ちゃんと読ませていただいてます。そのうち、皆さんからのメールについてまとめてお返事する回を設けたいと思っております。12月くらいかな。

いただいたメールをザッと読むと、こんな感じだった。ルールの規準は、基本的に「自分自身の判断」。たくさんの人々とかかわる空間では、その空間を管理している人あるいは技能や知識あるいは人格の優位が認められている人の示すルールに従うというもの。言い換えれば、外的な権威を意識していないか、その空間を技術あるいは人間関係で支配している人を権威として認めているということになるだろう。それらに加えて、W3CやIETFなどが示す標準を権威として認識している人もいた。

まず、「権威」ってなんだろう。そこで日本語に関する権威の一つである広辞苑の定義を掲げる。

(1)他人を強制し服従させる威力。人に承認と服従の義務を要求する精神的・道徳的・社会的または法的威力。

(2)その道で第一人者と認められている人。

...。 (1)の定義は、やはり広辞苑の「権力」の定義とあまり違わないようにみえる。「威力」というところに権威ならではのものがあるのかと思って「威力」を引いても、要するに「力」という定義しかでてこない。うーん。現実に通用している日本語としては、広辞苑の定義でもいいのかもしれないけど、権威について論述の用語としては困る。そこで、独自に修正をしちゃう。「他人を強制し服従させる力」を「権力」、「人々が服従と義務を実践する根拠として一般に承認されているもの」を「権威」とさせてください。「権力」が人々への強制を中心とするのに対して、「権威」は人々の承認を中心とするもの。そのあたりの意味については広辞苑の定義の(2)と十分に対応するものだと考える。

なぜ私たちが、ある権威を承認するかということについては、二つの理由が考えられる。(A)ある事柄に関する判断についてより望ましい判断を権威が示していると期待することが合理的だから。(B) あるルールに従うことが本人の行為にとって、コストが小さく、利益が大きくなると考えられているから。(A)の理由は「望ましさ」を規範的な望ましさとして考えている。(B)の理由は経済学的な意味での「コスト」と「利益」を考えている。

(B)の理由のうち「利益」については、これまた二つの見方ができそうだ。(B-1) 他人が利益の内容を決めるならは、権威は義務に近いものと認識されるだろうし、(B-2) 本人が利益の内容を決めるならば、権威は自由に近いものと認識されるだろう。

さらに(B)の理由のうち、コストに注目するなら、どのようなルールでも、ルールとして一般的に通用していれば、行為に関するコストは下がる。たとえば人に会った時、親愛の情を示すことが、続く行為をより容易にするというコスト低減効果があったとする。親愛の情を示す行為として、お辞儀、抱擁、握手などといろいろな方法が考えられる。この場合、親愛の情を示す行為として、いずれがその人の属する社会にとって一般的かが問題であって、お辞儀、抱擁、握手という具体的行為には利益の大小がないということを意味する。ルールであることが問題で、ルールの内容は問題でないということ。

これに対して、(A)の望ましさと(B)の利益は、ルールの内容に依存する。ある社会でなにが望ましく、また利益となるかは、さまざまだからだ。たとえば、広辞苑の(2)の定義から考えてみると、ある領域で第一人者とされる人は、おそらく他の人よりも「(A) 望ましい」ルールを設定できるだろうし、それは「(B) 利益」をもたらすルールでもあることが期待される。ここで、仮にその第一人者が、実際には最適なルールの設定に失敗していたとしても、大多数の人々が第一人者の設定したルールに従うならば、社会の人々の交流にかかわる「(B) コスト」が低下することになる。こうした理由から人々は権威を求めるし、権威が必ずしも権力のように暴力的な強制を伴うわけでもないのに、人々は権威に従うのだと考える。

私は、読者の皆さんと「権威」について話すとき、互いの理解にヘンなコストが生じないように広辞苑という権威に頼ったわけだけど、広辞苑は私の論述の目的のためには適切な定義に失敗していた。そこで、私なりに「権威」の定義を変更したわけだけど、その説明のために、ここまで1300字ほどのコストをかけてしまったわけ。こうして考えると、「権威」がちゃんとした仕事をしていることは、広い意味での人々の交流のコストを下げるわけだから、社会的に有益だということができる。

ちゃんとした仕事をしたために、本人が望んだわけでもないのに権威になった人として有名なのが、故ジョン・ポステル氏。まだインターネットが「顔の見える」世界であったとき、ポステル氏の仕事と人格は利用者たちを納得させるのに十分な力を発揮していた。リンク先の記事をよめば、いかに彼が信頼されていたか分かるだろう。こうした権威が 複雑を極めたかもしれないドメインネームの割当や、インターネットの標準を生み出してきたRFCの整備をしたおかげで、インターネットの運営に必要なコストが著しく低下していたことは間違いない。その負担を一身に背負った代償として彼は早世したのかもしれないね。改めて合掌(-人-)。

個人が権威となってルールを定めることが不可能なほど、インターネットが拡大したという事実は、おそらく、ポステル氏本人が一番感じていただろう。彼は、ドメインネームを管理する国際機関の設立を提案し、自らもその中心メンバーの一人となる予定だった。「国際的財産となったインターネットは、国際的に管理されるべし」という理念が背景にあったのだと思う。しかし、その機関であるICANNが活動を開始するのと同時期に彼は急逝した。ポステル亡き後のICANNの理事選挙においては、インターネットの支配をめぐって国家のメンツを背景にしたようなゴタゴタが見られたし、ICANNが国際機関であるがゆえに各国間の利害などが絡んでルール作りの透明度は低下したらしい。ポステル氏の時代のような、顔の見える利用者と顔の見える権威の間に成立した強い信頼は、もはや生み出しえないように思われる。ネットワークにおける権威は、いまや個人からも国際的な機関からも発生することは難しい。他の方法を考えなければならない。

さて、広辞苑の定義(1)では、権威が「精神的・道徳的・社会的または法的」な力であると説明していた。で、次のように理解してみる。

1. 精神的 (倫理的) ⇒ 個人の内面に作用する宗教やイデオロギー

2. 道徳的 ⇒ 共同体で通有されている「望ましさ」を目的とする規範

3. 社会的 ⇒ 共同体で実践されている規範

4. 法的 ⇒ 共同体で通有されている「望ましさ」を目的とし、権力により強制されている規範

ここで、レッシグ先生が指摘しているように、ネットワークにおいては、「5. 環境的 ⇒人間の行動を限界づける外在的法則」な力もまた権威によって設定することができる。たとえば、RFC等の技術標準は、ネットワークがどのように動作するのか、という「世界の動作原理」を決定している。現実世界ではこうしたことは神様が定めることになっているけど、ネットワークには、技術標準を定める人々がいる。だから、我々がネットワークの動作原理に従うことは、それらの人々の権威に服していることになる。もちろん、私たちが「TCP/IPなんて気にいらねぇ!」と叫んだところで、その標準に従わなければ、少なくとも現在のネットワーク上に存在することはできなくなってしまう。

ネットワークにおける権威を考えるとき、実は 環境的威力がもっとも強力だといえる。なぜなら、権威の承認が「利益」と「コスト」の評価によって行われているならば、その利益とコストの関係を、技術的な仕組みは容易に変更してしまえるから。この連載で使ったかどうか忘れたけど、このことを「アーキテクチャの支配」という言葉で表現することにする(もしかするとレッシグ先生が使った言葉かも)。

実際に、ネットワークである程度の一般性をもって通用したルールというものは、未熟なネットワーク技術が私たちに強制する「不自由さ」とか「制約」から導かれたものが多かった。「電子メールは行方不明になる可能性があるから、重要な用件は電子メールではなくほかの通信手段を使いましょう」とか、「一分ごとに課金されているのだから、署名(signature)は3行以内に」とか、「スレッドの数は300個までしかサポートされていないから、クソスレを立てんな」とか、あるルールの理由には、ネットワークの技術的制約があった。

ネットワークの技術的制約が大きかった時代には、利用者の自由は反比例的に小さくなる。できることの幅が狭かったわけだ。このときネットワーク利用者たちは、アーキテクチャという世界的な権威に知らず知らず従っていたことになる。現在に比較してその時代には、紛争が少なかったらしい理由には、こうした環境的な要因があったんじゃないかな。

ところが、ありがたいことにネットワークの技術的制約は、技術者たちの努力によってどんどん解消された。ここ数年ほどの間にも「えっ、こんなことできるの?」というような改善が次々になされてきた。アーキテクチャの支配は、ずいぶん緩和された。それまでネットワーク世界を縛ってきた条件が緩んだわけだから、こんどは利用者の自由がもたらす紛争が増大するのも当然だ。

このあたりについては、「ネチケットRFC」として知られる RFC1855 の「はじめに」を読むとなんとなく理解してもらえるのではないかと思う。もとより、このRFC1855自体がネットワークでの振る舞いに関する一つの権威ではあるのだけど[*1]。

これに対して現実世界においては、かつてのネットワークに比べれば、私たちは自由だった。行為の制約がなかったとは言わないけど。「現実世界」というアーキテクチャに私たちは何年もかけて慣れていくのだから、大学生くらいになれば、世の中でどのように振舞うべきかくらいは身についていたはず。今はそうでもないみたいだけど。

大きな自由が与えられていたにもかかわらず、問題がそこそこ押さえ込まれていた理由は、現実世界では、人間の行為がローカルにしか作用し得なかったことにある。だから、ほとんどの人にとって日常的な生活のルールは、とてもローカルな共同体のルールで、それに従っていれば円満に生活することができた。また、そうした空間では、狭い人間関係のもとで、誰が「権威」であるのかを決定することが、それほど難しくなかったんじゃないだろうか。たとえば、長屋に住んでるご隠居の一言がその長屋のルールを決める権威であるような場合とか。さらに、すでに現実世界の社会には構造ができてて、権力が強制的に「権威」を設定していたという面も大きいだろう。たとえば、幕府が寺請制度を強制したことで、お坊さんの権威は幕府の権力を背景に強化された。

ネットワークでは、アーキテクチャの支配が緩和されると、他に人々の行動を制約する縛りになりそうな要素はすくない。私が以前に朝日新聞の夕刊に書いたコラムのオリジナル・バージョンである「パラレル・ワールドで語る倫理」で書いたように、ネットワークでは、一人一人が自分自身の世界に生きることになりやすい。前回の呼びかけに応じて投稿してくださった皆さんも、基本的には自分自身でルールを設定しているが、他人が支配する空間に入るとその支配に従う、という方法を採用していたのもこうした理由からだと思う。

とはいえ、他人が私たちの常識とまったく異なるヘンテコなルールを運用していた場合どうなるだろうか?投稿してくださった皆さんは、(a) 単にその空間から離れるか、場合によっては (b) 意識的にルール破りをするとしていた。一番コストの少ない解決法は、(a)であることは間違いない。でも、どうしても関わらなくてはいけなくなったら?

そこで、「プロトコル protocol」に注目してみたい。みなさんご存知のようにプロトコルというのは、ネットワークを構成する機器が相互に通信を行うための仕様のことを指す。インターネットがいくつもの階層からなるプロトコルの集合体であることは、ある程度の利用者ならみんな知ってるはず。でも、もともとプロトコルは「外交儀礼、典礼、儀典」という意味だった。そこから外交によって作られたさまざまな取り決めである「条約・議定書」のことをプロトコルというようになって、それがやがて通信工学用語に転化したわけ。

相互に慣習も文化も言語も異なる国同士が交際する外交。ある国の常識が別の国で通用することを期待するほうが間違っている。そこで典礼の意義がでてくる。決まりきった儀式をキチンと進めていくことが「最大の礼をつくしているのだ、友好的なのだ」という意味を持つものと相互で認め合うわけ。外国の要人が来日すると、毎度毎度同じような手続きで歓迎式典が開かれる。なんであんな仰々しいことを毎度するのか、と思っていた人がいるかもしれない。あの式典の形式がもっとも合理的で利益のあるものかという点では、いろいろとツッこむところはあるだろう(たぶん壮大なムダがあるはず)。でも、大事なのは、外交儀礼をキチンと守ることで、国と国との交渉における摩擦(コスト)が減少できるという「約束・決まり」になっている限りで十分意味をもつものなのだ。儀式のあとの実務会談でどんなに罵詈・雑言がやり取りされていても、両国は「友好的」だということになる。

もちろん、実際の典礼の形や内容は、ヨーロッパの国際慣習から作られたものであることは間違いないので、文化的に中立なものでないことは事実。まあ、ヨーロッパは17世紀から自分たちの枠組み(ウェストファリア体制)を指して国際社会だと認識していたわけだから、国際社会で採用されたプロトコルを履行することができる国が、文明国として国際社会の仲間入りを許されるという まさにソサエティ(society 社会 / 上流社交界)的な仕組みにされてしまったのも仕方がない。この場合、プロトコルを強制する権威はソサエティということになる。

このように典礼を重んじるやり方は、形式主義だとかエラソーだとか、そういう理由で今は人気がない考え方かもしれない。でも、「これを守っている以上は礼を尽くしているんだ」という保証が得られるプロトコルが決まっている方が、あまり知らない相手同士の交際については楽じゃないですか? 実は、私たちがないがしろにしがちな手紙や冠婚葬祭やビジネス上のマナーってそういうものだったんだと思う。相手の定めたローカルルールとは独立して存在する、交際のためのプロトコルというわけ。

典礼はあくまでも「決め事」だからその内容は問われない。でも、ある社会や文化を前提とすると、たとえば、お辞儀、抱擁、握手のいずれが「より望ましい」かという判断が可能になる。そこに典礼の利点がでてくる。典礼が人為的に作られ、不自然で、形式ばっているほど特定の社会とのつながりが薄くなる。典礼を典礼であると認識する合意さえ作られれば、社会や文化を異にする者同士でも典礼は共有できる。こうして、ある行為が「礼」であること、そして「礼」には予定された「礼」で応えなければならないという仕組みが、交際における相手の行動を予測するコストを大幅に引き下げてくれることになる。

内容が問われない典礼ということで思いつくのが、2ちゃんねる語。まあ、国語学的にはひどいものなんだろうけど、自分の発言は「2ちゃんねる」というソサエティに参加するモードで為されています、というプロトコルなのではないだろうか。スレが立ったら「2ゲット! ズザー」が来るのがプロトコル。で、もし自分がスレ立てても2ゲッターが来なかったら、たいていの 2ちゃんねらは不安になるのではないかと思う。あと、一定のリズムでコピペなどで煽り/煽られるのがプロトコル。ときどき2ちゃんねるの様式に従わない発言がされたりすると、「マジレス」「なげーよ」「ポカーン」ということで非難されたりする。

ネットワークはプロトコルの塊だけど、人間同士の交流のプロトコルについては まだまだ未成熟だと思う。先にも挙げたネチケットRFCなどのように先駆的な動きもあるし、いろいろなネット・マナー集なんかも出ているんだろう。ただ、それがネットワークで一般的に通用するようなものとしての決定版は無いようだ。いずれかのプロトコルが一般化するまでには、ものすごく時間がかかると考えたほうが自然だろう。

でも、冒頭で指摘した「権威を承認することの理由 (B)」を受け入れて、あるプロトコルを仮定された権威からのものとして認めてしまったらどうだろう。もし、特定の個人や機関が権威の主体になることが何らかの意味で危険なのであれば、仮想の存在でもいい。実は、宗教における「神」とか、国家における「元首」とかそういうものは、こうした利益計算から祭り上げられているのかもしれない。宮殿の奥や御輿の中に「誰かがいる」ということが重要であって、それが「誰なのか」が問題でないというのは、みんながなんとなく気がついていることなんじゃないかな。

このあたりで、まとめ。

ネットワークでの行為にさまざまな技術的制約があった頃には、その制約が利用者の間のルールの多様化を制約していた。インターネットが比較的小さな共同体であった頃には、顔の見える個人に対する信頼が権威を生み出していたし、具体的な利益を目的として望ましいルールを発見する仕組みが機能していた。

しかし、技術的制約が緩和されていくにつれ、利用者のさまざまな行為の自由は広がり、ルールの多様化の余地が広くなった。また、ネットワークの拡大とともに、個々の利用者から顔の見える個人に対する信頼を基礎にした権威は、ローカルなルールを設定することができるだけになった。多様な利用者の目的が存在するために、ある利益を目的として望ましいルールを導き出すことも難しくなった。

法は何らかの社会的目的を掲げるものであるがゆえに、多様な価値観が同居するネットワークにおいて法が成長しにくい状況にある。でも、秩序維持の問題は、法の問題であるよりも先に、見知らぬ者同士が円滑に交流するための典礼の問題なのかもしれない。典礼であるならば、価値観の問題を排除したルール作りができるかもしれない。そしてもし、典礼が内容を問わなくても良いのだとしても、良い実装と悪い実装くらいは客観的に評価できるかもしれない。

もうすでにあるのかも知れないけど、ネットワークでの人々の交流を分析したうえで、Inter-Human Communication Protocol みたいなものの草案を作成し始めてもいいんじゃないだろうか。プロトコルに従わない人を排除するのは、権利の否定や人格の否定ではなくて、単に「403 Forbidden」というメッセージが返ってきただけのものとして処理することはできないだろうか。プロトコルに従わない人のメッセージを存在しないものとして扱う技術的・心理的実装はできないだろうか[*2]。

しかし、誰が草案をつくるのか? 誰が検討するのか? 社会的な規範の設定について、より望ましい判断をすると期待されているという点では、哲学者とか倫理学者とか法学者とかが候補になるんだろうか。ああ、大変そうだ。誰かやってくれそうな気高い人はいませんかねぇ。そしたら、あなたは権威だ。私はそのプロトコルを受け入れますよ。

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[1] RFCのレベルとしては「ご参考」程度のものであるので、RFC1855が標準だというわけじゃない。また、「リンクの際に許可をとらなければならない」というルールを掲げている唯一のよく知られたルールであるため、「リンクは自由である」と考える大多数のネットワークユーザーにはあまり評判がよくないみたい。

[2] ネタでしかないし、あまりヒットしなかったみたいだけど、私の周辺の人たちの間では大ウケしていた、「吉野家牛丼注文プロトコル (YBBOP)」をイメージしてたりしました。でも、YBBOPのように純粋に技術的な様式でやるべきだと考えてはいません。

昔の欧米の学生は「エチケット・ブック」を学校から支給されて、どういうときにどのように振舞うべきかの指針としていたらしいのですが、そういった感じでしょうか。で、昔、このようなエチケットやマナーがそれなりに機能していた背景には、そうしたルールを守れない人を露骨に差別したり無視したりすることが社会的に容認されていたという、ある人たちにとっては階級社会的なイヤーな文化的背景があったわけです。

でも今みたいに、学生がアメリカのチンピラみたいな服装をして、大股開きで、口をポカーンと開けて、ヘッドホンからジャカジャカ騒音を立てて、満員の電車の中で堂々と座っている姿を見ると、またそうした学生を見て見ぬふりしている大人たちの姿を見ると、「下品でアホな人たちを露骨に差別する社会づくり」の必要性をチョビッと感じるんですが、みなさまいかがお考えでしょうか。苦情・批判は shirata1992@mercury.ne.jp まで。待ってま〜す。

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告知

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次回11月末は、別の特集原稿をHotWiredに出すので、「法と慣習」はお休み。12月末は皆さんからのメールを取り上げながら今年の反省。てな感じの予定でおります。もう、ネタでも何でもいいんで shirata1992@mercury.ne.jp までなんかメールください。でないと、12月の記事にまた困ります(泣)。

そろそろお終いの雰囲気がチラホラ... という感じが漂ってるかもしれませんが、それはきっと皆さんの気のせいじゃないかな、と思います。

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Return 白田 秀彰 (Shirata Hideaki)
法政大学 社会学部 准教授
(Assistant Professor of Hosei Univ. Faculty of Social Sciences)
法政大学 多摩キャンパス 社会学部棟 917号室 (内線 2450)
e-mail: shirata1992@mercury.ne.jp