De Legibus et consuetudinibus Interreticuli

政治的であることについて

白田 秀彰とロージナ茶会

前回の茶会実況中継で、ネットワークにおける言論の右傾化に関する話が出てた。ネットワークでの言論は、その仕組みからして制約がないし、政治的言論は、憲法が保障する言論表現の自由の核になる部分だから、法的にも制約できない。だから、政治的な少数派に属する人たちにとってネットワークにおける言論というのはとてもありがたいものだろう。実際、極右から極左までいろんな立場のWebページが存在する。

でも、ネットワークにおける多数派は、政治的なものに消極的な人たちだろう。これは日本人を中心とするネットワークの一領域だけではなく、世界的な傾向だと思う。政治的なものに消極的という立場にも何種類かある。(1) その人なりの政治的立場はあるけれども、ネットワークを非政治的空間と把握していて遠慮している人たち。(2) もとより政治的志向がまるでない人たち。(3) 矛盾しているみたいだけど、政治的立場として政治的なものをネットワークから排除することを主張している人たち。他にもあるかもしれないけど、だいたいこんなものだろう。

政治的な主張は、えてして喧嘩や紛争の種になるから、社交的には望ましくない。だから(1)の立場の人はかなり多いんじゃないかと思う。日本の学生の様子をみてると、日本の大多数の人は(2)に該当するんだろうと思う。(3)の立場は、ネットワークにおける存在感(あくまでも主観だけど、よく見かけるという意味で)としては、それなりの地位を占めているようだ。それらは、たいていの場合アメリカに本拠をもつ組織(として実際に体をなしているかどうかは不明)として存在しており、左翼系だと無政府主義的で、保守系だと自由至上主義的だ。いずれも、既存の政府はネットワークに介入すべきでないという立場をとる。

(3)の立場は、ネットワークにおけるエリート層といえるような人たちに多いような気がする。古参のハッカーやネットワーカーたちは、政府の介入のない時代のネットワークを技術的に整備し、成功し、今の繁栄の基礎を作ってきたわけだから、この立場にはネットワークの内部における歴史と伝統の重みがある。名和小太郎先生は、この立場を「躾のよいアナーキズム」と呼んだりしていた。先ほども書いたように、この立場は存在感があるため、ネットワーク文化の基調をなしている。

でも、そうした「空気」が新参のネットワーカーたちを(1)や(2)の立場にとどめるような影響をもたらしているとすると、「いいのかな?」と思ってしまう。エリート層が歴史や背景を理解した上で政治的に消極的な立場を取っているのに対して、それ以外の人は「ネットワークというのは、政治的に消極的な空間であるべきだ」というなんとなく存在する「空気」でそうしていると私は考えている。もし、政治的に活動できる素質のある人がこうした消極的理由で埋もれているのなら、社会的な損失だといえるから。

政治的に活動できる、ってのは、どこかの政治家みたいに献金やらパーティやらでお金を集めて権力を獲得して既得権者たちのために公を犠牲にする、ってことではない。だれもが「めんどくさいなあ」と思うような公の問題について気が付いてしまって、その結果がどんな酷い事になるかわかってしまって、それじゃマズイと思ってしまって、それで仕方なく着手してしまうようなこと。こういうタイプの人たちは社会の宝なんだから、みんなが大事にしなければいけないんだけど、今の日本では、もっともバカにされて疎まれるタイプの人たちである。いったい、どうなってるんだこの国は。

でもまあ、ネットワークがリアル世界と連続しているのであれば、別にネットワーク世界にわざわざ政治を持ち込まなくても、いいのかもしれない。紛争の種を増やしても仕方ないしね。ところが、ネットワークがリアル世界と対立する利害を持つのであれば、ネットワークが政治的に消極的な空間であるというのは、問題かもしれない。どんなところにも利害の対立は多かれ少なかれある。そのたび毎に闘争なんかしていたら、やりにくくって仕方がない。だからそうした利害の対立は、政府の下で解決されるべき問題だ。でも、歴史的にみて、いくつかの点が侵されると、それは政府の下で解決される問題ではなくなり、政治的闘争として、内乱あるいは独立戦争というようなことになるようだ。

その筆頭は、基本的自由。続いて税金。そして代表の問題。

まず、基本的自由。少なくとも自由主義とか民主主義国家における政府というのは、国民の自由を保障するために存在することになっている。政府のない状態の人間というのは、無制約の自由をもっているということになっている。ところが実際には多数の人々の自由は相互に対立し、力のある者の自由のみが実現し、大部分の人たちは抑圧された状態に陥る。これでは大多数の人間の自由が実現されないことになるので、そうした各人自由の調整を委任し、社会全体で最大限の自由が保障されるように政府が設立されましたとさ... というのが近代国家の理論が形成されるときに語られた物語。

で、国民は自由の大部分を政府に委任したわけだけど、どうしても政府に譲れない自由を留保することにした。これが基本的人権というもの[*1]。この基本的人権を政府が侵すようになった場合、もともとの目的に反することを政府がしているわけだから、政府は権力を行使する正当性を失ってしまうことになる。

次に税金。現在は、私たちが意識されないうちに徴収されているお金というのもかなりあるので、あまり税金は意識されなくなっている。とくに日本の給与所得者のように給与が支払われる以前に税金やら社会保障費が抜かれている場合、ほとんど意識されない。更にいえば、税金はさまざまな公共的なサービスに用いられている(ことになってる)ので、私たちはそうしたサービスの対価として税金を払ってるんだ、という感覚も形成されている。

でも、そうした意識が希薄だった時代には、本人の意向にかかわらずお金を持っていってしまうのは、泥棒と税金くらいなものだった。また、近代国家が形成される以前には、為政者の都合で税金が設定されたり、金額が上げられたりした。そこで、なんだかワケのわからない税金が掛けられたり、税金がなんだか知らないけど増額されたりすると、しばしば政治的な闘争になった。歴史的にみても内乱や革命は、だいたい為政者やある集団の利益のために人民に負担を課すような理不尽な課税がきっかけになってる。

近代国家が掲げる財産権の不可侵というのは、財産権がどんな場合にでも絶対的に保障されなければならないという趣旨ではなく、政府が理由もなく国民の財産を収奪してはならないという原則のこと。一方、はるか昔から、財産権というのは常に公共の利益のために一定の制約を受けてきた。このあたりをごっちゃにしてはいけない。私たちに経済的自由に制約が課されるとき、誰の利益のための負担なのかを考えれば、両者を区別することは難しくないはず。

そして代表。近代国家が成立して、政府の運営内容は議会で審議され、法律によって定められることになった。議会には国民の各集団の代理人である議員が派遣され、それぞれの対立する利益を議論し、それぞれの集団が納得できる形で政府が運営されることになった。政府の運営内容とは、まさに先に述べた国民の自由の保障(あるいは制限)の仕方と税の掛け方。だから、議会は、政府の正当性の核であり、革命やら内乱やらといった悲惨な事態を避けるために必要不可欠な存在だ。

ところが、もしある集団があって、その集団が議会に代理人を派遣できないとしたら、どうだろうか。その集団にとっては、自由の保障もなく、財産権の保障もなくなってしまうことになる。もちろん、政府は国民一般に平等に適用される法に基づいて運営されるので、代理人が派遣できていないだけで、いきなり無権利状態に置かれるという危険はすくない。でも、その集団にとっては政府や法の正当性を素直に受け入れることはできないかもしれない。とくに、その集団が意図的に議会から排除されていると意識する場合。

たとえば、アメリカの独立戦争というのは、もともと本国イギリスと植民地の人口比に対してイギリス議会での代表が少ないことと、そもそも海を越えて議会に代表を派遣しろということ自体が差別的に不利だという潜在的不満があったところに、理不尽な税金が掛けられたことで、自分たちの経済的自由が侵害された、という気分が高まったことがきっかけになって始まってる。他の革命やら内乱についても、実際的な内情はさておき、大義名分としては上記の理由が掲げられているはずだ。

代表の問題は難しい。近代国家が成立していた頃であれば、社会の集団というのは、たとえば身分、職業、地域でだいたいまとまっていた。だから政党も、貴族や大土地保有者を代表するのか、あるいは産業資本家や職人を代表するのか、という具合に方針がはっきりしていた。利害も地域でまとまっていれば、選挙区を決めて代表を中央に派遣すれば地域の利害も代表されることになる。でも、現在みたいに、個々人の利害が複雑化し拡散していくと、政党や選挙区を単位にする代表方式は、個々人の感覚からすると、自分たちの利益を代表していないように感じられるはずだ。けれども、個々人の利害をいちいち代表するような代議制度というのは考えられない。

こうして考えると、リアル世界における政治的無関心は、私たちの気合とか意識の問題じゃなく、構造的な問題なんだということがわかる。で、リアルの世界における望ましい代表システムの話は難しいので専門の方にお任せすることにして、ネットワークにここまでの議論を当てはめて考えてみよう。

まず、ネットワークにおける自由の問題。古参のネットワーカーが「荒野の自由」を享受していたことはおそらく間違いない。で、この自由に根拠があるか? 彼らにはあったのだろう。創造による所有あるいは無主物先占による所有の類推から、彼らが技術的に広げてきたネットワークは「自分たちのものだ」という認識だったと思われる。ところが、ある程度開拓に成功して、開拓者たちが自らの享受している利益を既得権であると考えるようになったころ、そこに大規模な開発業者たちや、たくさんの移民たちがやってきて、ついには本国(=リアル世界)の政府がやってきて支配を開始した。

このあたりの過程は、アメリカがイギリスから独立した展開と似ている部分がある。早くも、1996年にJ. P. バーローが「サイバースペース独立宣言」なんかを書いたりしたのも、アメリカ人を中心とする古参のネットワーカーたちには、アメリカ独立の歴史と自分たちがいま体験している変化との類推が、ほとんど自明のことだったからだろう。古参のネットワーカーたちが 上記(3)の政治的なものを排除する立場を掲げるのには、こうした背景がある。

ただ、「独立宣言」は、時期尚早だったように思われる。というのは、新たにやってきた移民たちが多数派を占めるなかで、古参のネットワーカーたちの自由の既得権の主張は、説得力をもちにくいから。また、「荒野の自由」の代償として、ネットワークの中で多くの紛争が起きており、大多数の移民者たちが本国にいるときと同じような制度的保護を要求しているにもかかわらず、これを解決するための効果的な仕組みを古参のネットワーカーたちは提供できなかったから。

次にネットワークにおける税金の問題。これはほとんど問題になってこなかった。だいたい、ネットワークの開拓は、本国(=リアル世界)からの資金援助によって進んできたわけだし、開拓の基礎的な部分が成功した後は、本国からの莫大な投資によって整備が進んだ。そのうえ、本国の政府は、いまのところネットワーク上の取引に対して効果的に課税する能力を持たず、いまのところネットワーク取引への課税については謙抑的だ。税的に優遇されてきたのだから、ネットワークでの経済が活気に満ちていたのは当然で、税金が政治的な対立の重要なポイントであるなら、ネットワークが非政治的空気に支配されたのは当然。あえて言えば、通信事業者やアクセス・プロバイダーへの支払いが、ネットワークでの活動への課税に近い感覚で把握されえたけど、価格競争の激化のなかでアレヨアレヨという間に劇的に安くなっていったわけだから、問題になることもほとんどなかった。

ただ、どこの政府でも財源は欲しくて仕方がないわけだから、いずれネットワーク上の人々の諸活動に課税しましょうという方向に進むのは間違いない。個人認証、ID追跡機能、コンテンツへのID附加などの技術で、本人特定と活動履歴が取得できるようになれば、政府からのサービスを利用して個人が獲得した利益の一部を税として徴収することもできそうだ。考えてみると、公的な権威のある本人特定と活動履歴は、それだけでネットワークにおける個人の信用を保証するサービスだから、それ自体に課金することができるね。

さて、そもそもの政府の役割が「国防・治安、市場・信用秩序の維持」にあったことを考えると、それらを支える力である傍受能力と暗号作成解読能力がそのキモになることがわかる。それらの力は、リアル世界における軍事力に該当する。IT大国をめざす日本も頑張ってるはず(だよね?)。

まず、傍受について。たいていの国で法に基づかない傍受が違法化されているのだから、傍受の実行は政府の仕事になる。だから、傍受能力が高い政府がネットワークにおける覇権(といっていいのかな)を握ることになるだろう。次に、暗号作成解読能力について。政府に関係するものは政府が独自に開発し利用しているのだろうけど、民間が使用する暗号については、民間企業がセキュリティ・サービスとして提供している。暗号の応用がネットワークにおける市場・信用秩序を維持するほとんど唯一の方法だとすると、ネットワークにおける税とは、セキュリティ・サービスへの支払いということになるだろう。すると、強力な暗号の開発競争と、それを技術標準化する競争は、領土獲得競争に近いものだといえそうだ。セキュリティ・サービスを提供している民間企業からの税収が、政府にとってネットワークからの間接的な税収だとすると、暗号利用分野での民間によるサービス提供を支持して、自由競争を促進することが必ずしも中立的な主張といえないかもしれない。

あと、Linuxのライセンスに関連して、SCO (Santa Cruz Operation) がライセンス使用料を企業や個人に対して請求している問題が起きている。これを「Linux税」と表現したりする人がいる。あと、Windowsを代表とするMicrosoft製品を使わなければ仕事にならない環境が実現しているなかで、それらの製品に支払うお金を「Microsoft税」と呼ぶような人たちもいる。それらはもちろん、製品やサービスに対する支払いであるのだから、税ではない。でも、それらが税として認識されてしまうのは、「自分たちが納得しているわけではないのに、否が応でも支払わなければならないお金」として認識されているからだろう。全てのネットワーカーが、セキュリティ・サービスへの加入を実質的に義務付けられたりしたら、おそらく、セキュリティ・サービスに支払う代金も税として認識されるようになるに違いない。

これらが「税」として認識されてしまうのには、もう一つ理由があると思われる。通常の商品であれば、市場において妥当な価格が決定される。そこには「購入」というプロセスを通じて私たちの意向が反映される(ことになってる)。ところが、ネットワークでは相互運用性(inter-operability)を重視するから、ある製品やサービスがいったん市場の大部分を占めれば、その製品やサービスが一人勝ちになる。「イヤなら使うな」と言われても、使わなければしかたがなくなる。市場占有率が私たちに使用を強制するわけだ。そして、先の種類の「税」はいずれも知的財産権に基づいて請求される。すると、ライセンスの価格について提供側が一方的に決定できることになる。

そうした必須技術のどこまでが知的財産権で保護されて、どの程度強力に保護されて、何年間保護されるのかということは、国際機関に集まる各国代表が枠組みをつくり、それぞれの政府が制度化する。その程度によって、ある知的財産から得られる収益(逆にいえば利用者の負担)は変化するだろう。これは法的には知的財産権という私権に関するルールであるには違いないのだけど、上記のような必須技術にそれらが適用されることを考えると、単純に私権に関するルールだと言い切れるのか疑問になってくる。実質的な効果としては、ネットワークに対しての税徴収代理権を私人に付与し、その徴収範囲と徴収額をコントロールすることになってないだろうか。税制やその基本理論について、私はよく知らないので、税制度に詳しい人に批判をいただきたいところ。たぶん、私の見方がものすごーくヒネクレているんだろうと思う。

ただ、ネットワークにおいて知的財産権というのは税みたいなものとして利用者に作用してくるんだ、というところを指摘しておきたい。

そしてネットワークにおける代表の問題。ネットワーカーは、どこかのリアルな国家に属している。だから、その国家の政府に制度的には代表されているはずだ。「だから、ネットワーカーの利益は、政府に代表されています。はい、おしまい。」... とはいかないことは、みんなわかってるだろう。

ネットワーカーは、少なくとも日本において政治的に代表されていない。ネットワーク関連業界なら、政治的な力をもってるけど。それでもって、いつの間にかいろんな法律ができてしまってたりするわけで、ネットワーク関連法規に業界の意向は反映されるけど、これに対立するような利用者の利益は反映されない。これでは、ネットワーカーの間に順法意識が高まるはずもない。まあ、これはネットワークに限った話ではなくて、全ての法律についてもそうのなのかも知れないけど。

ある利益があって、その利益をめぐって対立する人たちが集団をつくり、そこから代理人を議会に送り込むことで、その利害は政治的に代表される。だから、ある利益(たとえば東京都民としての利益)から見たときに代表されている人が、別の利益(たとえばフリーターとしての利益)から見たときに代表されているとは限らない。ある人がリアル世界に属しているから、ネットワーク固有の利益を掲げる必要はない、とはいえない。

先に述べたように、かつては身分、職業、地域が利益対立の枠組みになっていた。でも、いまはこうした枠はうまく機能していない。利害は個々人単位へ分裂してしまった。仮に個々人を繋ぐとしたら、それぞれの利害ごとに一人の人間が複数の集団に属するほかない。ネットワークは、個々人の分裂した政治的立場を繋ぐメディアとして好適なんじゃないかと考える。とくに、地理的に分散して存在する利益を重視するような人たちにとっては、より効果的な代替手段がない。ネットワークにおける政治的活動を奨励することは、リアル世界における政治の停滞を解消するためにも有効だと思うんだけど。あと、地理的に分散して存在する利害を反映しやすくするため、「選挙区」という考え方自体を見直した方がいいかも[*2]。

かつて、身分、職業、地域が利益対立の枠になった理由は、それらが生活を維持する利益と直結していたから。今では、ネットワークでのビジネスを中心として生計を立てている人もかなりの数いるはず。また、ネットワークへの法規制もどんどん整備されて、ルールが明確されつつある。ルールの内容でゲームの勝敗が変わるのなら、ネットワークでの、ある利益を主張する利益集団がいくつか形成されてもいいはずだ。ところが、少なくとも日本では、そうした集団が存在するのを見たことがない。ルールを作るのは官僚主導で、政治家は新しい種類の利益対立には無頓着、ルールに文句がある人はパブリック・コメントを出すくらい、というのでは、ネットワーク固有の利害が政策や法に反映されるはずがない。

妥当でバランスの取れたルールを作るために、利害関係者が議会で正々堂々と対決するというのが民主主義の政治のあり方。もし、ネットワークでしか代表されえないような利益が生じているにもかかわらず、そうした利益集団が代理人を議会に派遣できないような状況がずーっと維持されるならば、内乱や革命みたいなことにならないにしても、新しい形態のメンドウな事態になるかもしれない。とはいえ、複雑に錯綜した現代の利害関係を整理して、考えうる利益集団のいくつかのパターンを提示するような仕事を誰かがしないと、集団形成も難しいだろうな。政治学者がやるような仕事なんだろうか。あ、政治家ってのが、ほんとはその仕事をするんだった。

ネットワークがもうちょっと政治的であってもいいんじゃないか、ということと、代表に関係するお話がもう少しある。けど、もう今回は疲れ果てたんで、次回書けたら書きます。でも、別のネタになるかも。

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[1]上記の理由づけからわかるように、基本的人権の内容は、仮に政府が存在しなくても人が人として存在するだけで享受しうる自由だ。さまざまな制度に依存して人が存在しうる現代社会においては、そうした自然的な自由や権利ですら政府の力で保障してもらわなければならないようになっているので、基本的人権を保障するための周辺的な「人権」なるものがどんどん付け加えられている。いまや、もともとの意味での「人権」とは遠くかけ離れた社会的要求が「人権」の名で唱えられている場合も多いことに注意する必要がある。

[2]ネットワークを政治的に利用することに慎重であること、たとえば選挙活動においてネットワークを利用することにさまざまな制約を置くことは、既存の政治的枠組みとその利益にとって有利な手法であるといえる。たとえば、ある政党の支持者というのは、60歳以上の人が多く、高齢になるほど支持率が上がると仮定しよう。一方、ネットワーク利用者は60歳以上ではガクンと減少するとする。そうすると、選挙活動でネットワークをできる限り利用させないようにするのが、その政党にとっては重要であることになる。あと、選挙が「地盤 (支持組織)、看板 (その地域での評判・名声)、鞄 (資金力)」に依存するというような今の状況で、選挙を勝ち残った代議士さんたちは、その三つをすでに持っているわけだから、その三つを無効化してしまうような選挙制度の改革はやらないだろう。

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告知

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前回の最後に「告知」を付け忘れたら、見事に投稿がゼロに。皆さんから見限られたんじゃないかと思ったりして軽く鬱入ってます。

今にして思えば、連載のタイトルはもう少し抽象的なヤツにしておけば良かったと後悔してます。たとえば、「サイバー法学漫談」とか。そうすればネタの幅が広くなって書きやすくなってたかも。「法と慣習」だとなんか慣習らしいものを発見しないと書けないし、それを法学に結び付けなければいけないんでツライです。慣習発見は、読者投稿に依存しようというのが最初の目論見だったんですが、見込みが甘かったです....

で、反論でも罵倒でも何でもいいから shirata1992@mercury.ne.jp までよろしく、よろしく(泣)。とくに、今回のネタに関連して、ネットワークに存在する利益集団の例とか、ネットワークでしか代表されえないような利益について、思い当たる節があればぜひぜひ投稿よろしくお願いします。

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Return 白田 秀彰 (Shirata Hideaki)
法政大学 社会学部 准教授
(Assistant Professor of Hosei Univ. Faculty of Social Sciences)
法政大学 多摩キャンパス 社会学部棟 917号室 (内線 2450)
e-mail: shirata1992@mercury.ne.jp