De Legibus et consuetudinibus Interreticuli

タコを育てて、ブタを木に登らせる話

白田 秀彰とロージナ茶会

前回、ネット上での足の引っ張り合いとか、罵倒合戦について皆さんからご意見など募集したわけですが、一通も来ませんでしたぁ(号泣)。掲示板とかBlogとかでの匿名コメントでは、勇ましい罵倒をよく見かけるのですが、「メアド曝しての発言はやめとこう」って感じのチキン野郎ばっかりなんですか? つい先日読んだばかりの私が言うのもなんですが、岩波文庫版 新渡戸稲造著『武士道』でも読んでチョビッと気合を入れたらいかがですか、と申し上げたく候。

さて、「タコを育て」るというのは、いつ頃からは知らないけれど昔からUNIXコミュニティで使われていた「タコは育てよ」という格言(?)に由来してる。この格言は、いまでもときどきネット上で見かけたりする。「タコ」とは「初心者あるいは無知であるがゆえにアホな質問や発言をする人」のこと。似たような言葉として、今は「厨房」という言葉がある。「厨房」がかなり侮蔑的な意味を含んでいるのに対して、「タコ」という呼び方には、先輩職人が新入りに対して呼びかけるような親しみの響きがあった。私も若い頃は、ずいぶんタコな質問やタコなことをしたわけだが、先輩方から、一見 不親切でぶっきらぼうな、それでいて少し頑張れば解答にたどりつけるように配慮した、ヒントやアドバイスをもらいながら育ててもらったものだ。

UNIXコミュニティの達人や先達と呼ばれるような人たちも、すべてタコから始めて偉くなってきたわけだから、タコは仲間として大事にされた。タコは少しずつ成長し、そうしてある日、別タコからのタコな質問が放置されていることに気が付く。達人や先達なら簡単に答えられるような質問だ。これこそがタコの餌。タコは不安と恥ずかしさを乗り越えて質問へのアドバイスを書き込む。そのリプライに「ありがとうございます。ヒントのおかげで自分で解決できました。」という書き込みを見たとき、タコは「人」になるわけだ。ああ、なんと美しき徒弟制の世界よ。もちろん、タコから成長しないのもいたし、「教えてクン」としてダメ世界に墜落していくのもいた。でも、いずれにせよ、初心者をなんとか自分たちの仲間として認めうる水準にまで高めようという雰囲気があった。

その理由は、博愛的なものもあったかもしれないけど、もっと実利的な理由があると思う。UNIXには、ベンダーからのサポートがまったくなかったわけではないけど、それは、基本的にユーザー同士が助け合いながら使うものだった。リーヌスの法則として知られる格言に「目玉の数さえ十分ならどんなバグも深刻ではない」というのがある。UNIXコミュニティの規模が大きくなることは、隠れたバグや不具合を発見する可能性を高めることでもあるし、また、そのバグや不具合を解決できる人が登場する可能性が高まることだ。ネットワーク環境においては、いったん誰かが問題を解決すれば、コミュニティ全体の同種の問題をいっぺんに解決することになる。情報の外部効果がものすごく高い。でも、優秀なUNIXユーザーはそれほど多くない。だから、達人に成長する可能性のあるタコは大事にされたんだろうと思う。

もう一つ、UNIXコミュニティでの格言(?)に「言い出しっぺの法則」というのがある。なにか問題を発見したり、なにかイイ思いつきをした人がいたら、「誰よりもまずオマエがやれよ」という決まり。なにかを言い出すということは、その人が問題に直面していることを意味していて、その問題についてもっとも情報をもっていることになる。だから、その問題をわかりやすくコミュニティに提示するためには、まず その人がやってみることが一番いい。

たとえば、ネットワークにおいて情報をもっとも効率よく配布し共有する仕組みを考えついたとしよう。私のような文系の人間なら、自然言語を使って論文を書くだろう (自然言語は冗長性が高いので、考えを正しく表現するのは難しい)。システム・エンジニアなら、仕様書とフローチャートで表現するだろう (自然言語とプログラムの中間的な表現だから、かなりしっかりと考えを表現できる)。そして、当然プログラマなら、プログラムとして記述するだろう (あの融通の利かないCPUでさえ解釈・実行できるのだから、もっとも論理的に明晰な記述法といえる)。プログラマ集団から構成されていた昔々のネットワークでは、新しい提案は黙ってプログラムとして記述され、その動作をもって提案者の言わんとするところが理解された、という伝統があった。そのためにも、プログラマの流儀に合った問題記述、処理能力をもった人材が豊富に存在することが望ましい。コミュニティがタコばかりの生け簀ではこまる。

麗しき互助の世界のようにみえたUNIXコミュニティも、実はまわりまわって自分のためという仕組みがあった。でも、これってUNIXコミュニティだけの話じゃない。よくよく考えてみれば、コミュニティの構成員の能力が可能な限り高いほうが、そのコミュニティに参加する人のメリットが増える。だから、ほんとうは「タコは育てよ」は全ての人たちに妥当する格言なんだと思う。

じゃ、なぜリアルの世の中では、麗しき互助が成立しにくいんだろう。理由はおそらくコミュニティ内における序列が、希少な資源の配分につよく影響するからだと思われる。もし、資源が序列の上位から配分されていくのであれば、他人を蹴落として自分が上位に就くという動機が生じる。ストールマンが、情報に価値を見出す世界に金銭が入り込んでくるのを烈火のごとく嫌うのは、こうした理由からだろう。そもそも情報には希少性なんてなかったはずなんだから。

少し極端な例を示そう。あなたが徴兵されてどこかの部隊に編成されて前線に送られるとしよう。ものすごく戦闘能力の高い指揮官に指導された、戦闘マシーン集団のような部隊に配属されたい? それとも、NHKのアナウンサーのような穏やかで健全なパパっぽい指揮官に指導された、善良なサラリーマン集団のような部隊に配属されたい? まあ、いろんな立場があるとは思うけど、私なら自分の能力がかなり下位になるくらいの強い部隊に配属されたい。それが私の生き残る確率を最大にしてくれると思うから。でも、実際の戦闘の可能性がない平和時であるとか、戦闘の可能性が低い戦地において、階級が上のものから給料がたくさん支給されるとしたら、私は同僚の足を引っ張ってでも出世したいと考えるかもしれない。

こうして考えると、序列が資源の配分、すなわち金儲けといまのところ直結していないネットワークで、これほど叩き合いとか足の引っ張り合いが起きるのはおかしなことだ。逆に、叩き合いとか足の引っ張り合いの多さから考えると、ネットワークでは、金銭以外の希少な資源をめぐっての競争が起きていると判断するほかない。それなら、それらは様々な行動を誘発するインセンティヴとして有効に使えるはず。だれかソレがなんなのか解明してください[*1]。

[1] これについて「叩き合う原因は単なるストレス発散では...」という指摘をもらった。うーん。なるほど。ストレスを誰かにぶつける、ってのは生産的なインセンティヴにはなりにくいだろうなぁ。

さて、名前を挙げても詮無いことなんで触れないけれど、私の知り合いにはネットで積極的に発言している人たちがたくさんいる。そうした人たちは、大抵の場合、誰にヤレと言われたわけでもなく、書きたいから書いてるだけ。そのうちの何人かは、マス・メディアでも発言している。彼らは、かなりイイことも書くし、ときたまマズいことも書く。でも、書くからにはそうとうに気合を入れて書いていることは間違いない。

ところが、そうした人々が手弁当で気合を入れて書いた文章に対して、レベルの低い揚げ足とりが入ったり、言いがかりとしかいいようのない批判が来たりする。批判者が大真面目に知恵を絞って批判した結果が、的外れな言いがかりになってるなら仕方がない。「タコは育てよ」の格言どおり、ちゃんと叩いて導いてあげれば、だんだんまともな論者に成長していくだろう。しかし、単純な思いつきと脊髄反射としか考えられないものも多い。そうした批判は何のためになされるのだろうか?

(1) 自分の能力が論者よりも高いことを示したいという競争本能? それなら2, 3行の書き逃げでなく、ちゃんとした論説を示したらどうだろう。まず、「言い出しっぺの法則」が適用される。たとえば、デバイス・ドライバの性能に文句があるなら、自分でより性能の高い互換ドライバを書いてリリース、というのが昔からのネットのやり方。そうやってネットワーク界は発展してきたんだ。だから、文句があるなら自分で書いて発表してみればいい。続いて、2, 3行という点。プログラマの美学として、同じ機能を果たすプログラムであれば、短ければ短いほどエライという価値観がある。だから、「寸鉄人を刺す」ような表現が好まれるのはわかる。でもさ、整理→分析→判断→結論という論説の基本的な書き方を踏襲すれば、自然言語を使って2, 3行で済ませるわけにはいかないと思うんだけど。

(2) タコが偉そうに論じている思い上がりを糺すため? タコが調子に乗って舞い上がるとポカをする。舞い上がったタコに重石をつけて安定させてやろうというのなら、有益だ。しかし、批判者にちょっと反省してもらいたいことがある。批判には 妬みがないか? とくに、自分ができないことができる人を自分と同じレベルにまで引きずり下ろそうという、嫌らしい自尊心がないか? もとより名声を確立している論者は、的外れの批判には動じない。でも、ネットワークの片隅でちょっといい事を書き始めた人は、とても打たれ弱い。また、誰かが完膚なきまで叩かれて潰されていく様子をみることで、これから何かを書き始めようとしている新人が怯えてしまい、黙ってしまうということも考えられる。健全な民主政治の基礎は、より多くの人々の理性的言論による正しい政策の発見だ。妬みに動機付けられた理不尽な批判は、政府による言論弾圧よりもタチが悪い。

だいたい、これから世に出る可能性のある人を寄って集って潰して誰が得をするのか? 「ネットワーク論壇での序列がリアル世界の資源の配分に大きく影響しない」という仮定が成り立っている限り、ネットでいい事を書き始めた人を伸ばしたほうが、社会全体の利益を増すことになるんじゃないだろうか?どんどん支援して伸ばしていけば、単に発言する人ではなく、活動する人にまで成長する可能性だって十分にある。

「得をする誰か」という点では、月並みながら容疑者がいる。社会の上層の人々が自らの地位を安泰にし、下層の人々を支配する定石的方法がある。それは、(a) 下層の集団を可能な限り小さく分割して連携させない (b) 分割された集団同士を争わせて消耗させる というやり方。ネットの中でユーザー同士が足を引っ張り合っているのを楽しく眺めているのは、リアルで力を持ってる人たちなんじゃないかな。逆の立場から考えてみる。社会の下層で支配される側に立つ人たちというのは、つまらない嫉妬心やら自尊心やらで、協力していれば自分を助けてくれたかもしれない人を陥れているような、狭量な人たちだということなのかもしれない。

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さて、ブタを木に登らせる話について。30歳台半ばを過ぎた男性であれば、タイム・ボカン・シリーズで有名な「ブタもおだてりゃ木に登る」 (このフレーズに誰かが著作権を主張したりしないよなぁ、いくらなんでも) に由来していることにすぐに気がつくだろう。木に登れそうにないブタでも、「ソ、ソレ、ソレソレ、ヨイショッ!」とおだてれば、スルスルと木に登るというもの。これは真実だ。木に登るブタを見たというのではなく、誉めて励ますことで人が調子にのってどんどん伸びていくこと。一応教育者なので。

今、ネットワーク世界とリアル世界との関係をめぐってのせめぎあいが起きている。古き善きネットワーク / 新しい自由を信じられた時間を昔話にしたいか? 先達たちが残した善いものを保存して、リアル世界との安定した関係を作りたいのなら、もう少しだけでも皆が力を合わせる必要がある。「協力する」って、ウザくてカッコ悪くて偽善的でイヤだよね。「どうでもいい」っていうワルでニヒルな態度ってカッコいいよね。でも、「協力」がダサくて「ニヒル」がカッコいいって誰が決めたんだろう? ちょっと考えてみて。誰から教わった? ちょっと思い出してみて。それで誰が得をするのか考えてみて。

リーダーの存在が気にくわない? 自分たちは気ままに自由? 少しでも何かのリーダーをやったことのある人ならわかるだろうけど、例えそれが2,3人の集団でさえ、まとめ上げて一つの目標へ力を合わせることは難しい。人を惹きつけ先導する力は、誰もが持てるわけではない貴重な能力なんだ。リアル世界を仕切っている人たちの作り上げた社会的な価値と仕組みに対して、ネットワーク世界で力をもち始めた人たちが新しい価値と仕組みを掲げるときならば、それを発見する人、整理する人、広める人、実現する人、リーダーたるべき人材はいくらでも必要だ。

せっかくネットで人々を惹きつける方向を示す人が現れても、つまらない足の引っ張り、揚げ足とりで潰そうとする人たちはを何をしたいのだろう? 他人がリーダーになるのが気に入らなければ、なぜ自分がリーダーになろうとしないのだろう? 能力がありそうなタコを育てて、ちょっと名の売れてきたブタを木に登らせるくらいの器量を持つことすらやっぱり難しいんだろうか。木に登った健気なブタ達が、リアル世界の論者たちと堂々と斬り結ぶ優雅な決闘を見たくないか?

ネットワークは「自律・分散・協調」で動作するように設計された。だから、新しい価値と仕組みもそれに従えばいい。自分のやれること、やりたいことを、やれる範囲でやればいい。リアルの生活に影響するほどキツくなったら、止めればいい。嫌がってる人に仕事をやってもらうために、金銭を支払うのは止めておいたほうがいい。いつの間にか仕事が、その人の「生活のための職業」になってしまう。するとその人は、現在の職業を維持し、あるいは よりたくさんの金銭を求めて集団内の序列を高めるように動機付けられるだろう。その過程で、その人に取って代わるべきだった より有能な新人の登場が抑圧されることになるだろうから。

職業化(専門化)は、希少な資源の配分をめぐって競争するモデルを採用する経済分野においては合理的だ。専門化することで単位時間あたりの仕事の効率が上昇するだろうことが期待できるから。ただし、そこでの前提は、ある職業(ポスト)をいくらでも増やすことができて、同種の職業についた人の間で自由な競争が起こることだ。すなわち、ある職業に就くところまでは、なんの障害もあってはならないわけ。近代市民国家が、職業を制限し支配してきたギルド制を廃止し、「職業選択の自由」を国家の基本構造(憲法)として採用したのはこうした理由だ。同業者との競争は、そのあと自由市場で勝手にやってて、というわけ。

一方、政治行政分野、すなわち「公務」と呼ばれる仕事においては、全体の利益のために、もっとも適切な人がその仕事を担当することが望ましい。希少な資源をめぐるゼロ・サム・ゲームではなく、全体のパイを増やすことを考えなければならない。誰かを叩いて自分がのし上がるんじゃなくて、全体が向上することが目標のはず。ところが公務というものは、そのポストが限定されている、さらにポストと報酬の間に明確な関連がある。すると、ポスト自体が希少な資源となって、これをめぐっての争奪が始まる。先の軍隊の例を思い出してもらいたい。本当は国家全体の利益のために、より適切な人がしかるべき地位に就くことが望ましいのにも関わらず、本質とは離れた部分での足の引っ張り合いが始まるというわけだ。逆に、議員や官僚が職業化してつまらない足の引っ張りあいをしているということ自体が、危機意識の欠如とか平和ボケというものの具体的な症状なんだといえる。

公務は職業であってはならない。これが重要なことなんだ。プラトンが『国家』において、指導者階級に財産どころか家族すら許さなかったのは、国家の政治から私益すなわち財の配分問題を切り離すためだったと思う。また、民主主義の基本スタイルを作ったイギリスにおいて貴族や郷紳 (gentry)と呼ばれた人たちは、自分の生産財を保障され、すくなくとも自分の生活のために政治をする必要がなかった。もちろん、富の増大すなわち領地の拡大に執念を燃やすタイプの貴族もいただろう。しかし、タテマエとしてでも騎士階級の美学として、経済的利益を著しく下に見る態度が要求された。だから、自分が軍事や政治など、貴族として相応しい義務において国家から必要とされるまで、自分の領地で穏やかに牧畜・農業経営をしているのがもっとも理想的生活と考えられていた。古き善きアメリカだって、上級公務員は名誉職であって、しっかりした本業を別にもってる ゆとりある人(≒良識と教養のある人)が、微々たる歳費で一時的に公共に奉仕するというモデルがとられていた。

葉巻をくわえてペルシャ猫を膝に乗せた金持ちの実業家が市長なんかになって、政治を私物化してボロ儲けする、というようなマンガや映画が多いために、金持ちが政治をすることにものすごく批判的な感情がいまや形成されているけど、よくよく考えてみると、貧乏人が公務に就くほうが危ういのかもしれないよ。もし、私が少なからぬ供託金と選挙運動費用を費やして国会議員にでもなったら、そりゃ、それらの費用の回収に走りますよ。とりあえず、まず政治献金一億円くらいもってこーい!って感じ。それだけのお金をくれたら誰にでも尻尾をふるなぁ。...すくなくとも、貧乏人であることが清廉潔白を証明するわけではない。

でも、リアル世界では、公務を職業としないことは難しい。だって、仕事してるんだし、家族もいるし、腹も減る。専業でやってもらってたら、生活を保証しないわけにはいかない。

ネットワークならどうだろう? インターネットの運営は、伝統的に、研究者とか大学の先生とかエンジニアとか、別のキチンとした職業を持っている人たちから構成される、ネットワーク全体の利益を目標とする一時的なタスクフォースが担当してきた。一握りの選ばれた人間が、職業としてネットワークの運営をめぐる全てのことを担当するのではなく、きわめて限定された領域の問題について、その問題を解決したいと思う人々、解決する能力を持つ人々がワラワラと手弁当で集まって解決してきたんだ。ネットワークが誰のものでもなかったから、誰も彼らにちゃんとした報酬を払う人がいなかった。だからこそ、個々の問題について、もっとも相応しい人々が担当することが可能になったんじゃないだろうか。

ネットワークが、今 直面している問題は、技術的なものもずいぶん残っているけど、顕著に社会的・文化的な問題が増加してきている。これを担当できる文科系と理科系の中間あたりにいるタイプの人材は不足している。じゃ、誰がやるの? いまこそ、この分野におけるタコを育てて、ブタを木に登らせる必要があるんだ。

[追伸] 書いてて、なんか「私自身を育ててエラくしろ」と主張しているように把握されてしまうような気がしてきたので予防線を張らせてください。私自身がタコでありブタであることは間違いありませんが、本論は、一般的な話として書きました。この意図には嘘偽りはありませんです。信じてください。

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告知

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懸念したとおり、Winny事件関連でインタビューなんかが続いたりなどと、忙しくなってきたことと、ネタ切れ気味になってまいりまして、次の一回分おやすみさせてくださいませ。ネタは相変わらず、hideaki@hotwired.co.jp で募集しておりますです。そろそろ、ウィルス付メールと、出会い系とかアヤシゲ・ビジネスのお誘い以外のメールをいただきとう存じます。

「ネタ切れなら、47氏逮捕事件について書けよ」ってのはもう少し勘弁。言いたいことはあるにはあるんですけど、はなはだビミョーなアレなので、ババッと書き逃げするか、そうとう腰を落ち着けて立論していくかの二つしかなくて、どっちかというと腰を落ち着けて書くしかないかなぁ、と思ってるので書けないんですよ。

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Return 白田 秀彰 (Shirata Hideaki)
法政大学 社会学部 准教授
(Assistant Professor of Hosei Univ. Faculty of Social Sciences)
法政大学 多摩キャンパス 社会学部棟 917号室 (内線 2450)
e-mail: shirata1992@mercury.ne.jp